冬の記憶

頭が上手く働かなくて困っている。俺は混乱している。

一体何について考えれば良いのか、何について語れば良いのか分からない。

何事も一切分からない。

なんだか自分が透明人間になってしまったかのような気がする。自分の前に立ち現れてくる現実を、途方もない夢まぼろしのように感じてしまう。

意味がない、感情がない。ただあるのは空白だけだ。茫漠たる空白に手を伸ばしてみても掴めるものは何もなく、ただ宙を彷徨っているような日々。

そんな薄らぼんやりした意識の中に、唐突に蘇る感情がある。

恐怖。

俺の存在証明とは何であろうか。生きながらにして死んでいるだけの日々が積み重なっていくとき、そこに「存在の価値」とでもいうべきものはあるのだろうか。その問いにうまく答えられないとき、俺に生きていく意味はあるのだろうか。

 

頭が痛くなってきたので、ささやかな昔話をしようと思う。ある冬の日の記憶だ。

 

当時俺は小学校の4年生で、その年の冬は珍しく雪がたくさん降った。

教室の窓際の席に座っていた俺は、授業を上の空で聞きながら、休むことなく降り注ぐ雪をなんとなくぼーっと眺めていた。そんな冬の日の、気怠い意識の中、俺は視界の隅っこでちらちらと蠢く何かがいることに気がついた。はっとして校庭を見渡すと、そこには一匹の犬がいた。その小さな雑種犬は、校庭にうっすらと積もった雪の上で、行き場所を失ったかのように同じ場所を何度もうろうろとしていた。俺のほかにその存在に気がついた生徒が「犬だ!」とかなんとかはしゃぎたてて教室内が若干ざわざわし、授業を中断された先生はやれやれといった表情を浮かべ、冷たく犬を一瞥した。

授業が終わると給食の時間であったので、俺は急いで飯を食べ、友達たちと一緒に犬を見に行った。みんな少し興奮しているようだった。

犬は初め、俺たちの出現に少し戸惑っている様子が見えたが、逃げるそぶりも見せなかった。俺たちは軽い興奮状態の中で、その小さな存在とどのように触れ合えばいいのかを探りながら、しばらくの間、無邪気にはしゃいでいたような気がする。どんな風にして犬と遊んでいたかは、どうしても思い出せない。

やがて昼休みにも終わりが訪れ、俺たちも教室に戻らなくてはならなくなったとき、名残惜しそうにその場を後にする集団の後を、犬もとことことくっついてきた。そんな犬の歩き方とか表情の様子が愛おしくてならなく、みんなが教室に入った後も、俺は昇降口でよしよしと犬の頭をなでていた。

そこに通りかかった先生が、お前もう教室に入れ、授業が始まるぞと近づいてきた。

「先生、ここに犬がいるんです。僕はどうしたらいいでしょうか」

「どうもこうもない、さっさと教室に入るんだ」

先生は俺と犬の間に割り込み、しっしと犬を追い払う仕草を見せた。

「先生、この犬はきっと迷子なんです。外は寒いし、このままじゃかわいそうです」

「犬はね、人間よりずっと寒さに強いんだよ」

先生はそう言ってさらに犬を追い立てた。

犬はその場でしばらくためらっていたようだが、やがて雪の降る世界へと踏みだし、こちらを振り返ることもなく、二度と帰ってこなかった。

 

こんな記憶の中で自分にとって不思議なのは、その犬が一度も鳴かなかったような気がすることだ。そんなことが妙に気にかかる。

現実の犬はそのとき鳴いていたかもしれない、俺が記憶を捏造しているだけなのかもしれない。いずれにせよその犬は、冬の日の午後、雪の世界に無言で消えていったまま、俺の記憶の中で永遠になったということだ。

 

俺にも誰かの記憶に残せるものがあると良いのだが。

虚無についての短文

 その夜僕を訪ねてきたのは仮面の男だった。秘密の舞踏会にでも似合いそうな不吉な装飾を施した仮面の奥から、力強い、怪しげな光を放つ双眸を覗かせるその男は、よく響く声で言った。
「時間はあまり残されていないのだ、我々は行かなくてはならない」
 男は一方的な宣言と共に僕の手を取り、星の無い夜空へと駆け上がっていった。剃刀のように鋭く研ぎ澄まされた風が僕の身を裂くように襲いかかってきたが、仮面の男には何一つ気になることは無いようだった。我々はぐんぐんとものすごいスピードで、目印も無い冷たい暗闇の中をかき分けていった。

 時間と空間の感覚を見失った恐るべき夜行がしばらく続いた後、我々は一つの橋の前にたどり着いていた。橋はぽつんと、無の中へと投げ出されていた。僕は目をごしごしとこすって周囲を見渡してみたが、そこには川も奈落も、渡るべき彼岸さえも見当たらなかった。
「ここはどこでしょう」と僕は尋ねた。
「ここではすべてが形而上的存在である」と仮面の男は言った。
僕はその意味について少し考えてみたが、まるで説明になっていないと思った。そもそも男が僕の質問に答えてそう言ったのかさえ定かでは無い。
「橋がそこにあるのあらば、それは渡られなければならない。それは分かるね」
不気味な仮面を形而上的に光らせながら、男は僕の顔を鋭く睨みつけた。その迫力に僕は思わず頷いていた。
「よろしい、ならば行きなさい。もう一度言うが、時間はあまり残されていない」

 そこには自分の意思などなかった。今では僕はもう、ただ橋を渡らなければならない存在となっていた。仮面の男のじっと観察する視線を背中に感じながら、僕はゆっくりとしかし確実に形而上的な橋を渡っていった。一歩進んでいくごとに僕は形而上的な何かをくぐり抜け、その結果としていくつかの大切な記憶が失われてゆく感覚があった。僕はできれば涙を流したかったが、そのときには既に、大切なものが失われていくことを悲しむ感情さえも失われていることに気づいた。
 橋を渡りきって形而上的な彼岸にたどり着いたとき、僕は自分が靄のような存在になっていることを発見した。何もかもが薄ぼんやりとしていた。そしてそれは完璧な無の到来を告げていた。
 いまや守るべき大切なものも、何かを追い求めて差し伸ばされるべき手も失われてしまっていた。

「すべてはこれでよい。では俺はもう行くぞ」
 どこか満足げな様子でそう言い残すと、男は一本のマッチを擦って橋へ投げかけてどこへともなく去って行った。炎はあっという間に橋を包んで燃え盛り、そしてあっという間に消えた。
 あとには虚無そのものとなった僕だけが残されていた。

オチのない悪夢のようななにか

こんな夢を見た

 

僕はちょっと信じられないくらい巨大な闘技場の観客席に座っていた。辺りには僕の他に誰もいない。ただ静かに風が吹き、青い空の中で太陽がキラキラと輝いている。

何となく僕は立ち上がって、闘技場に降り立ち、しばらく歩いてみることにした。

どこまで歩いても景色が変わらない。視界の端に観客席が見えなかったら、まるで砂漠の中を歩いているかのようである。それでも僕は汗一つ流さず、黙々と歩いて行く。

すると、突然目の前に真っ赤な湖が見えてきた。何の混じりっ気もない、純粋な赤色の液体が、太陽の白い光の中でたぷたぷと揺れている。幻想的な光景だった。

その湖のすぐそばまで来てみると、少しむっとした臭いが立ちこめてきた。そして僕は、それが血の臭いであることに気がついた。

でも僕はにわかには信じられなかった。というのも、あまりにもそれが綺麗な赤色をしていて、どこまでも遠く広がっているからだった。

僕はそっとその巨大な血だまりの中に手を浸してみた。驚くほど冷たくて、ぬめぬめしていた。あまり気持ちよくはない。

そうしていると、ぬめりを纏った何かが僕の手に触れたように感じた。何だろうと思って手を引き抜くと、正体不明の、ピンク色の肉塊のような物がべっとりと手にへばりついていた。その肉塊もまた驚くほど綺麗な色をしていて、不気味な印象はなかった。

その肉塊は僕の手にへばりついたまま、小刻みにヒクヒクと動いている。よくみると、微小なピンク色の蛆虫がその肉塊の中で活動していたのだ。蛆虫たちは陸に上がったことも気にせず、旺盛な食欲で肉塊を貪り続けていた。

それから僕は手を振るって肉塊をぺちゃりと地面に落とし、血の臭いが立ちこめる中、じっとその小さな蛆虫を観察していた。ピンク色の蛆虫がピンク色の肉塊をせっせと食べていく様子を、気持ち悪いなあと思いながら、目が覚めるまでずっと見守っていた。

 

終わり