虚無についての短文

 その夜僕を訪ねてきたのは仮面の男だった。秘密の舞踏会にでも似合いそうな不吉な装飾を施した仮面の奥から、力強い、怪しげな光を放つ双眸を覗かせるその男は、よく響く声で言った。
「時間はあまり残されていないのだ、我々は行かなくてはならない」
 男は一方的な宣言と共に僕の手を取り、星の無い夜空へと駆け上がっていった。剃刀のように鋭く研ぎ澄まされた風が僕の身を裂くように襲いかかってきたが、仮面の男には何一つ気になることは無いようだった。我々はぐんぐんとものすごいスピードで、目印も無い冷たい暗闇の中をかき分けていった。

 時間と空間の感覚を見失った恐るべき夜行がしばらく続いた後、我々は一つの橋の前にたどり着いていた。橋はぽつんと、無の中へと投げ出されていた。僕は目をごしごしとこすって周囲を見渡してみたが、そこには川も奈落も、渡るべき彼岸さえも見当たらなかった。
「ここはどこでしょう」と僕は尋ねた。
「ここではすべてが形而上的存在である」と仮面の男は言った。
僕はその意味について少し考えてみたが、まるで説明になっていないと思った。そもそも男が僕の質問に答えてそう言ったのかさえ定かでは無い。
「橋がそこにあるのあらば、それは渡られなければならない。それは分かるね」
不気味な仮面を形而上的に光らせながら、男は僕の顔を鋭く睨みつけた。その迫力に僕は思わず頷いていた。
「よろしい、ならば行きなさい。もう一度言うが、時間はあまり残されていない」

 そこには自分の意思などなかった。今では僕はもう、ただ橋を渡らなければならない存在となっていた。仮面の男のじっと観察する視線を背中に感じながら、僕はゆっくりとしかし確実に形而上的な橋を渡っていった。一歩進んでいくごとに僕は形而上的な何かをくぐり抜け、その結果としていくつかの大切な記憶が失われてゆく感覚があった。僕はできれば涙を流したかったが、そのときには既に、大切なものが失われていくことを悲しむ感情さえも失われていることに気づいた。
 橋を渡りきって形而上的な彼岸にたどり着いたとき、僕は自分が靄のような存在になっていることを発見した。何もかもが薄ぼんやりとしていた。そしてそれは完璧な無の到来を告げていた。
 いまや守るべき大切なものも、何かを追い求めて差し伸ばされるべき手も失われてしまっていた。

「すべてはこれでよい。では俺はもう行くぞ」
 どこか満足げな様子でそう言い残すと、男は一本のマッチを擦って橋へ投げかけてどこへともなく去って行った。炎はあっという間に橋を包んで燃え盛り、そしてあっという間に消えた。
 あとには虚無そのものとなった僕だけが残されていた。